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2020年9月18日金曜日

読みやすい 読みづらい

春先に知り合った方がいて、その方とは時々しか顔を合わせないのだけれど
「新聞にコラム書いていたよね?」と最近、突然聞かれて「そうです」というと
こんな話をしてくれた。
「(同じように掲載されているコラムでも)読みづらい文章と読みやすい文章があってね
でも(コラムって)月に1度回ってくるかどうかってところでしょ?
忘れた頃に掲載されるんだよね。
あ、この文章読みやすいなぁって思っていたのに3月の時に最終回だって書いてあって、
その頃、初めて会ったでしょ?名前を見て、あれ、もしかしてって思ったの。
読みづらい(コラム)のはちょっと読んで、ああ、もう読んだ、って読んだことにしちゃうの。
文章書くの好きなんでしょ?文章書くの好きなのはいいよね」

毎回、締切りに追われるように原稿を仕上げて
第三者の人が読んでも分かるように主人にも読んでもらって
意味が分からないところは書き直したり修正したりしたくらいで
他の方のコラムを読んでも読みやすいとか読みづらいとか
そういうことは感じたことはありませんでした。
難しい言葉やカッコいい言葉を使った文章を読むと、書いている人は頭いいんだろうなぁ
私はふつうの言葉の、平坦な文章しか書けないし、私は頭よくないからなぁ
と落ち込むこともありました。
でもその私の文章を「読みやすい」って言ってくれる人がいる。
そういえば「あなたの書く文章、おもしろいね」って
くらし随筆を書き終わった頃、年配の方に声をかけてもらったな
お店のお客さんにもみんゆう随想の内容を喜んでもらえたこともあったな、と思い出しました。
たっちコラムでいろんな方にお話を聴いて文章にしたときに
「こんなに素敵に書いてくれてありがとう」と喜ばれることもありました。
もちろん、お世辞なのもあるとは思うけれど
私は聴いた話をそのまま文章にしているだけだから演出とか脚色をしているわけではないし
“素敵”と思ったならきっとそれは私の文章が素敵なのではなくその人自身が素敵なんだと
毎回そう思うのだけれど。

私の書くスタイルはこれからも変わらないし
読む人のことを過剰に意識して書くこともないけれど
コラムを読んだ人の感想を忘れていまわないように記録として残しておこうと思います。

2017年8月1日火曜日

随筆、掲載終了

5月から三ヶ月にわたって夕刊に毎週月曜日に随筆を掲載していただきましたが
無事に昨日の掲載をもって終了しました。


以前、考える人の当時の編集長だった河野通和さんから
WEB媒体と紙媒体について河野さんの考えを聞く機会がありました。
同じ内容が書かれていても、WEB媒体で読むと内容が頭に残らない
紙媒体の方がずっと頭に残る、そんなお話でした。
同じ内容なのにどちらの媒体で受け取るかによってその後の違いがあるなんて
不思議だし、面白いな、どうしてなんだろう?と思いました。
でも今回、自分の書いた随筆を紙媒体とWEB媒体を読み比べてみて
確かに全然違うかも~と実感しました。

週に一度、締切りまでに原稿を提出する生活は大変でしたが
翌日送られてくる、自分の随筆が載った夕刊を読むのは楽しいものでした。
貴重な体験をさせてもらえて本当によかったです。
バトンを繋いでくださったmichicoママ、ありがとうございました。
私も次の方にバトンを繋ぐことができましたよ。

2017年7月31日月曜日

記録すること くらし随筆最終回

 私が担当する随想も今回で最終回です。
 このお話をいただいた時、「家族」をテーマに書こうと決めました。文章にするにあたりいろいろなことを思い出しました。
 山形旅行の写真にはまだあどけない顔をした子どもたちの姿があってとても楽しかったし、主人の祖父が書いた「家系図」を主人と二人で見て遠いご先祖さまに思いを馳せました。「」では私も主人も様々な選択を積み重ねた結果家族になりましたが、どこかで違う選択をしていたら出会うことすらなかったでしょう。「書く」ことで私のこれまでを振り返ることができました。

私は「震災から学んだ14のこと」というレポートを書きました。あの大変な震災でさえ忘れていることが多くあります。でも記録を読むことでいろいろなことを思い出すことができます。記録することは大事だと思いました。

今まで私のつたない文章を読んで下さった皆さま、この話を紹介して下さった美智子ママ、いわき民報とスタッフの皆さま、ありがとうございました。
この随筆は我が家の記録。宝物です。

2017年7月24日月曜日

愛された記憶 くらし随筆12

 西内みなみ先生の講演会に参加して知った、先生が書かれた本「子育ては、愛された自分さがし」。“自分の子どもを世話しかわいがるときに自分も親からそうしてもらった、愛された体験をもう一度味わう”というものです。

 子育てをしながらこの言葉をよく思い出します。たとえば順番に体調を崩した子どもたちに寄り添っていた時。それまで全く思い出したことのなかった古い記憶がよみがえりました。
  それは小学生の頃のこと。当時具合の悪い日が続き、昼間から眠っていた私が夕飯時に目を覚ますと母が私の枕元にきて「ああ、よかった。もう目を覚まさないんじゃないかと思った。」とても心配そうな母の姿に「私のことを本当に心配してくれていたんだ」と嬉しくなりました。
 9人兄妹の長女だった私。小さな妹たちと同じようにもっと手をかけてもらいたいと思うこともありましたが、あの時、私は母に愛されていると実感しました。
 
  やがて子どもたちが親になったとき、たくさんの人から愛された記憶にどうか出会えますように。

2017年7月10日月曜日

父と母のこと くらし随筆11

 絵本美術館(私立幼稚園の附属施設)の園長先生からお話を伺うことがありました。絵本美術館を創設された前園長先生と母の境遇が似ていたので親近感を覚えたのと同時に幼い頃のことや両親のことを思い出しました。

 祖父は母を銀行員にしたかったそうですが、母は夢だった小学校の先生になりました。その後、父と出会い母は家庭に入りました。
 私が幼かった頃、家には絵本が沢山ありました。ベストセラーといわれる絵本を見ると「あ、この絵本、うちにあった」と思うものばかりです。
 そのおかげか私は本を読むことが好きでした。私が中学校で国語を教えることになったとき、母はポツリと「お父さんも本当は国語の先生になりたかったのよ」と言いました。 

 父は中学生の時に父親を亡くし、大学生の時には母親が病に倒れたので家業を継ぐために大学をやめて地元に戻ってきたのだと聞いていました。父は本当は何になりたかったのかを聞いたことはありませんでした。あの時父は何も言わなかったけれど、心の中で父は喜んでいたのかな、と思います。

2017年7月3日月曜日

子どもたちへ くらし随筆10

 子どもが小さかった頃、ある子育てシンポジウムに参加しました。その時の心に残ったひと言です。「子どもは親を越える。」

 子どもは精神的な面で親を乗り越えないと一人前にはなれない、ということかと思いましたがそうではなくて「自分たちが今幸せなら、子どもたちはそれを越えてもっと幸せになる」ということでした。
 子どもたちが私たちよりももっと幸せになるなんてこんなに嬉しいことはありません。子どもたちのこれからの人生が素晴らしいものになりますように。
子どもたちが小さかった頃、ある人から「あなたたちのところに生まれてきて子どもたちは幸せね」とお褒めの言葉をいただきました。子どもたちがそう思ってくれたらどんなに嬉しいことか…。

 ある先輩パパの言葉。「人生で一番楽しいのは子どもが生まれてから20年。子どもを育てるのが一番面白い。あっという間やで。」
あの頃は20年なんてとても先のことのように思えましたが、過ぎてみるとあっという間でした。子どもたちよ、楽しい時間をどうもありがとう。

2017年6月26日月曜日

義母の背中 くらし随筆9

 倉敷の旅行から帰ってくると義母が体調を崩したと聞いた義母の職場の人、東京に住んでいる幼なじみの友人や、45年以上も前に住んでいた社宅の仲間などいろんな人達が義母のところにやって来ました。そして「美味しいものを食べに行こう」と連れて行ってくれたり、心のこもったおみやげを持って来てくれました。

 「情けは人のためならず、という言葉の本当の意味を知っている?」と義母に聞かれたことがあります。「情けは人のためにならないから情けはかけない方がいい、という意味だと思っていたら本当はそうじゃないんだよね。他人に優しくしたことは、やがてはめぐりめぐって自分に戻ってくる、そういう意味なんだってね。」と義母が教えてくれました。

 震災のとき、義母の友人達が「山田さんの息子さん達が困っている」と水や食料を沢山送ってくださいました。それは義母もまた友人達が困ったときに自分のできる精一杯のことをしていたからだと思いました。
 義母がこれまでどんな人生を歩んできたのかが分かったような気がしました。

2017年6月19日月曜日

義母の故郷 くらし随想8

  主人の実家に泊まりに行くといつも夕飯の後は義母とお茶を飲みながらいろんな話をするのが常でした。義母は両親や兄妹、甥や姪の話、自分が小さかった頃の話、友人の話や主人が小さかった頃の話をよくしてくれました。

 3年前の夏、義母の生まれ育った町を見に行こう、と思い立ちました。いつもは話に聞いて想像するだけでしたが子ども達と一緒にこの目で見てみたい、と思ったのです。そしてかねてより体調のすぐれなかった義母の病気が分かったのは旅行の前日でした。

 伯父達や叔母には会う約束をしていました。会うのは私たちの結婚式以来。子ども達のことは義母からよく聞いているそうで、とても喜んでくれました。義母の話によく登場する主人のいとこ達にも会うことができ、同窓会のようでした。

義母の生まれた町は平家物語にも登場する歴史ある町だと初めて知りました。義母が住んでいた頃とはだいぶ様変わりしたと、今でも実家近くに住む伯父が教えてくれましたが、義母に見せるため当時と変わらない風景をいくつか写真に収めて帰りました。

2017年6月12日月曜日

震災 くらし随筆7

 平成23311日、私の誕生日に大地震は起こりました。
 最初の数日は自宅にいましたが備蓄していた食料や水が尽きてしまい、埼玉にある主人の実家に身を寄せることにしました。
 「困ったときはお互いさま」という義母は私たち家族と実家の両親、兄妹、妹家族の総19名を主人の実家と、同じ敷地内のマンションの別の部屋で一人暮らしをしていた義兄の部屋で受け入れてくれました。
「まるたまさんの息子さん達が大変だ」と義母の親戚や友人、マンションの人たちからは食料や飲料水を沢山いただきました。その気持ちがどんなにありがたかったことか。

 あの頃、先の見えない不安に胸が押しつぶされそうでした。でもその中で救いだったのは食事。義母が朝食のおかずを作ってきてくれたり、母が夕飯のおかずを作って義母が白いご飯を炊き、主人の実家の家族と一緒に大勢で食卓を囲んだこともありました。みんなで食べるご飯の美味しかったこと。

 両親が自宅に戻ると決めた日、言葉にならずただ涙を流して握手をする母と義母の姿が私は忘れられません。

2017年6月5日月曜日

家系図 くらし随筆6

岡山・広島旅行から帰ってきて、主人が母方の祖父のことを思い出しました。
主人の母方の祖父は生前、自分の家の家系図を作成していたそうです。宮島に近い廿日市(はつかいち)まで調査に行ったこともあったとか。
その後家系図を書き上げ、祖父は全てのことを成し遂げたのように祖母の元に旅立ったのでした。

私が家系図が欲しいと義母にお願いすると、岡山にいる義母の妹から家系図が届きました。
主人の母方の祖父母の実家は広島にありました。家系図など様々な資料は原爆で全て灰になってしまったそうです。それで自分の記憶が確かなうちに再記しようと思った、と書かれていました。

遠いご先祖さまから始まり、丁寧に命の系譜をたどって8人いる義母の兄妹やその配偶者、子ども達の名前が記されていました。
家系図には主人は義母と義父と兄妹の名前と一緒に書かれていましたが、今ならそこに私や子ども達の名前を書き加えることができます。この家系図に自分や子ども達の名前を加えてもらえることを私は嬉しく思います。

2017年5月29日月曜日

親孝行 くらし随筆5

 岡山・広島旅行から戻って2週間後、小学校の運動会の振替休日を利用し、次は山形に行きました
私の母方の祖父母はいわき市出身ですが、父方の祖父母は山形県で生まれ育ちました。
 今度は私の両親、兄や妹たち、甥っ子軍団、母方の祖母も連れて総勢20名、4台の車で出かけました。

 祖父の実家のお墓がある天童、祖父母に縁のある月山(がっさん)や鶴岡にも足を延ばしました。
 この旅行ではタガマヤ村という名前の一軒家にみんなで泊まりました。
 父方の祖父は父が中学生の時に他界したので母も私たちも祖父のことはよく知りません。時折、母が仲人さんから聞いたという祖父の話をしてくれたり、伯母たちから祖父の思い出話を聞く程度でした。父が祖父の話をすることはあまりありませんでした。
 
 でもこの旅行の日の夜はお酒が少し入っていたせいかもしれません。寝る前のひととき、いつもは寡黙な父が私たち兄妹を囲んで嬉しそうに祖父との思い出話をしてくれました。その父の顔を見て「少しは親孝行できたかな?」と思いました。

2017年5月22日月曜日

命をたどる旅 くらし随筆4

震災が起こる前年、5月連休に岡山と広島に行ってきました。
主人の両親は岡山県倉敷市で生まれ育ち、主人の父方の祖母は現在も倉敷市で生活しています。義母の両親のお墓は広島市にあります。
主人の父方の祖母と子ども達は初対面。祖母もひ孫達との対面をとても喜んでくれました。
この旅は主人の両親の実家のお墓参りに行くことが目的でした。

沖縄のお話で「いのちのまつり」という絵本があります。主人公に「ぼうやに命をくれた人は誰?」と問いかけて、自分には沢山のおじいちゃんとおばあちゃんがいて、その人達からずっと命が続いている、ということに気づくお話です。
その絵本を思い出して「みんなの命は沢山のおじいちゃん、おばあちゃんからつながってきているんだよ。命をありがとう。みんなのおかげで生まれてくることができました。」とそれぞれのお墓の前で手を合わせました。

自分はいろんな人達から命のリレーをして生きていること、沢山の人達からのおかげさまで生きていることを感じて欲しいと企画した旅でした。

2017年5月15日月曜日

縁 くらし随筆3

主人と出会ったのは大学生のときでした。
私は高校時代に吹奏楽部に所属し、マーチングの経験もしました。
同じく進学した同級生が東京・埼玉を拠点に活動するマーチングバンドに入りました。そのバンドは高校でマーチングを指導してくださったK先生が大学時代に所属していたバンドでした。

同級生に誘われて私も入ったところ、ある時バンドのOBとして手伝いにきた主人と出会いました。主人は私が卒業した高校のことをよく知っていて「どうしてこの人は島根にある高校のことをよく知っているのだろう?この人は一体……。」と警戒しました。
主人は同じバンドで活動していたK先生に誘われて、卒業生ではなかったのですが私が卒業した後、私の母校に教育実習に行っていたのでした。

そのことがきっかけとなり現在に至るわけですが、もし私が地元の高校に進学していたら……。きっと全く別の人生を歩んでいただろうし、3人の子ども達にも会えなかったでしょう。私は主人と出会うためにあの高校に行ったと思っています。
「縁」とは本当に不思議なものです。

2017年5月8日月曜日

青春18切符 くらし随筆2

 日本全国から生徒が集まってくる私の母校。同級生の実家は北海道から鹿児島まで様々です。
 日本全国に友達がいることに憧れていた私は中学時代からすでに日本各地の人と文通をしていました。

 高校の長期休みになって松江からいわきに帰るとき「せっかく帰るなら寄り道しながら帰ろう」と文通相手に連絡をとって途中下車をして会う約束をしたり、同級生の家に泊めてもらって京都観光をしたり。ちょっと足を伸ばして広島の原爆ドームや安芸の宮島に行ったこともありました。
 もちろんお金をかけない旅です。青春18切符(日本全国のJR線の普通列車に自由に途中下車できる。 5枚入っていて1枚一日限り有効)を使って松江からいわきまでの各駅停車の旅です。いわきを通り越して八戸の同級生の家に行ったり(同じ東北なのに南部弁が全く分からなかったことには驚いた)好きだった小説家にインタビューに行ったこともありました。

 携帯もメールもなかった時代。高校生の子どもを持つ親となった今、私の気ままな一人旅を両親はよく許してくれたと思います。

2017年5月1日月曜日

私の高校生活 くらし随筆1

いつもお世話になっている素敵ママさんからバトンを引継ぎ、5月から3ヶ月間月曜日のいわき民報に私の書いた文章が掲載されることになりました。
 

 私はいわきで生まれ、中学を卒業するまでいわきで育ちました。
   その頃読んでいた小説の主人公は父親が転勤族で各地を転々としており、日本全国に友達がいる、という設定でした。日本中に友達がいるなんてうらやましい、と思いました。 

   そんな時、父の知り合いで秋田に住む方の息子さんが島根県松江市にある高校に通っていて、その学校は日本全国から生徒が集まってくると聞きました。そこに通えば日本全国に友達ができるだろうなと思っていたら、男子校だったその学校が男女共学になると知りました。私は迷わず進学を決めました。
   地元からの通学生もいましたが、私のように県外から入学した同級生は寮に入り、三年間寝食を共にしました。

   食事は食堂で食べられましたが洗濯や掃除は自分でしなければならず、家族もいない生活にホームシックになる同級生も多くいました。
    私は九人兄妹の長女として育ち、小さい頃から幼い妹たちの面倒をみたり家の手伝いをしていました。寮では自分のことだけをすればよかったので私にとっては好都合でした。ホームシックにもならずにすぐに慣れました。

2017年4月24日月曜日

素敵なお手本

Atelier Merciさんが書いたいわき民報の「くらし随筆」。
素敵ママさんすぎてすごいわぁ~、とため息。

私も真似したい、と思ったのは一筆箋と季語帳
以前にお手紙をいただきましたが、季節を感じる便せんに美しい文字で書かれた手紙に
とても感動したことを思い出しました。
文香、いいなぁ。
ちょっとした心遣いができるのは女性ならではのこと。
そういう時、女性っていいなぁと思います。