昨日はKuramotoでアフタートークショー付の映画「ひびきあうせかい」を観てきました。
この映画や登場する音楽家については全く分からないけれど
ヴィヴィアン佐藤さんのお話が聴けるのがすごいと思って。
映画が終わってヴィヴィアン佐藤さんの話を伺ってやっと「あ、そういうこと」と
だいぶ補足される部分もあったのだけれど
でもそれよりも「考えるな、感じろ」っていう場合もあるのかな、と思いました。
何にでも、どこにでもそこから意味を見出して価値をつけるのではなく
ただ感じるだけで十分なのではないかな、と。
映画の中で登場するサークルボイス。この映画の肝になっているところ。
人々が輪になって手をつないで声を、自分が心地よいと思う声を出して
まるでそれはコンサート前の楽器のチューニングのよう。心が共鳴?共感?するような。
画面が真っ暗になってサークルボイスの声が響き渡るのみで
私も目をつぶってそこで小さな音量で声をのせてみました。
目を開いてみると画面いっぱいに海の波が映し出されていました。
打ち寄せる波にサークルボイスの声がのります。
なんだかそれは
原始の頃の記憶?まだ受精卵になる前の、精子と卵子が出会う前の記憶のような
地球上にやっと人が登場した頃のような記憶のような。
最近聴いたばかりの音声配信で
「人類にはしばらくのあいだ、ことばがなかった」という話がおもしろくて
でも言葉がなかった頃もすでに人類は集団になって生活していたそうで
どんな風にコミュニケーションを取っていたんだろう?
こんな、サークルボイス風に声を出して人々は関わっていたのかな?
画面いっぱいに映し出された、寄せては返す蒼い海の波を見て
遠い遠い私たちの祖先のことを思いました。
Kuramotoのボランティアスタッフの話を思い出しました。
「自分とは違う、自分が思いもしなかったいろんな考え方や価値観に触れる」
というのはこういうことなのかもしれないな、と。
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