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2020年9月18日金曜日

読みやすい 読みづらい

春先に知り合った方がいて、その方とは時々しか顔を合わせないのだけれど
「新聞にコラム書いていたよね?」と最近、突然聞かれて「そうです」というと
こんな話をしてくれた。
「(同じように掲載されているコラムでも)読みづらい文章と読みやすい文章があってね
でも(コラムって)月に1度回ってくるかどうかってところでしょ?
忘れた頃に掲載されるんだよね。
あ、この文章読みやすいなぁって思っていたのに3月の時に最終回だって書いてあって、
その頃、初めて会ったでしょ?名前を見て、あれ、もしかしてって思ったの。
読みづらい(コラム)のはちょっと読んで、ああ、もう読んだ、って読んだことにしちゃうの。
文章書くの好きなんでしょ?文章書くの好きなのはいいよね」

毎回、締切りに追われるように原稿を仕上げて
第三者の人が読んでも分かるように主人にも読んでもらって
意味が分からないところは書き直したり修正したりしたくらいで
他の方のコラムを読んでも読みやすいとか読みづらいとか
そういうことは感じたことはありませんでした。
難しい言葉やカッコいい言葉を使った文章を読むと、書いている人は頭いいんだろうなぁ
私はふつうの言葉の、平坦な文章しか書けないし、私は頭よくないからなぁ
と落ち込むこともありました。
でもその私の文章を「読みやすい」って言ってくれる人がいる。
そういえば「あなたの書く文章、おもしろいね」って
くらし随筆を書き終わった頃、年配の方に声をかけてもらったな
お店のお客さんにもみんゆう随想の内容を喜んでもらえたこともあったな、と思い出しました。
たっちコラムでいろんな方にお話を聴いて文章にしたときに
「こんなに素敵に書いてくれてありがとう」と喜ばれることもありました。
もちろん、お世辞なのもあるとは思うけれど
私は聴いた話をそのまま文章にしているだけだから演出とか脚色をしているわけではないし
“素敵”と思ったならきっとそれは私の文章が素敵なのではなくその人自身が素敵なんだと
毎回そう思うのだけれど。

私の書くスタイルはこれからも変わらないし
読む人のことを過剰に意識して書くこともないけれど
コラムを読んだ人の感想を忘れていまわないように記録として残しておこうと思います。

2020年5月5日火曜日

7日間ブックカバーチャレンジ

【目的とルール】
読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する
本についての説明はなしで表紙画像だけアップする
Facebookの友達1人を招待して、このチャレンジへの参加をお願いする

お友達から招待してもいい?と連絡が来たのでOKしました。
どんな本を紹介しようかとblog内で検索してみて候補にあげたのはこれらの本。
ここから7冊選ぼうと思います。

ブックカバーチャレンジというだけあって
本の表紙の画像のみアップするのがお約束みたいだけれど
私はその本にまつわる私自身のエピソード(blog)もリンクさせちゃう。
表紙に惹かれてその本を手に取る人ももちろんいるだろうけれど
どんな内容なのかとか、その本を読んだ人が持っているエピソードが書いてあった方が
「あ、読んでみようかな」と思ってもらえるかなと思うから。
(私がそうだから)

2020年3月23日月曜日

情報満載?

先日たっちママから「まるたまさんのコラムはいつも情報満載ね」と言われて
他の方からもみんゆう随想が最終回を迎えるにあたって
(私の随想は)情報がたくさんだ、という感想をいただきました。
自分自身ではそんなに情報満載だと思っていなくて「そうかなぁ?」と思って聞いていましたが
3月のたっちコラムを振り返ってみたら「あ、そうかも」と思いました。
きっと私のお節介好きな部分がそうさせるのかも。

2020年3月19日木曜日

3年間、ありがとうございました みんゆう随想30

 三年にわたり掲載していただいた随想も今回が最終回となりました。今まで私のつたない文章を読んでくださった皆さま、ありがとうございました。
 随想のお話をいただいた頃、私は他に地元の月刊子育て情報誌のコラムや地元の夕刊での週一回の随筆の連載3ヶ月の連載ののちに終了)、編集部員として携わっている毎月発行されるフリーペーパーの挨拶文を書いていました。締め切りに追われながらもそれぞれにどんな内容の文章を書こうか考えながら過ごす毎日は楽しかったです。
 私がそれらの文章を書く時に大事にしていた言葉があります。『おもしろいと思ったこと、それがニュースや。おもしろいと思ったこと、それを調べればええのや。おもしろいと思ったこと、それを書きなさい』朝日新聞ベルリン特派員守山義雄さんの言葉です。
 「あ、おもしろいな、素敵だな、不思議だな、わくわくするな、誰かに知らせたいな」そんな自分自身の感覚を大事にしました。
 今でこそ心の中に浮かんでくる言葉を文字にすることができるようになりましたが、小さな頃は読書感想文や作文が苦手でした。あの頃はやり方が分からなかったのでしょう。
 学生時代、本や雑誌を読んで「あ、いい言葉だな」と思ったらノートに書き留めるようになりました。だったり、時には雑誌のインタビューだったり。長くて書き写すのが大変なときはコピーしてノートに貼り付けたりしました。それは今でも続いています。
 同時に「一日一投稿!」を目指してブログも書いています。原稿の締切りを前にして書くことが思い浮かばないときは自分のブログを見てみます。そうすると最近、自分がどんなことに心を動かされたのかを思い出すことができて、原稿を書くことにつながりました。
 最後に「随想を書いてみないか」と紹介してくださったいわき芸術文化交流館アリオスの長野さんと三年間お世話になった福島民友のスタッフの皆さま、ありがとうございました。
学生時代に好きだった小説家の新井素子さん。彼女の小説のあとがきの言葉をお借りして締めくくりたいと思います。『もしもご縁がありましたのなら、いつの日か、またお目にかかりましょう。

2020年3月18日水曜日

終わった!!

3年続いた随想の連載も明日の回で終了です。
始まった頃はあの文字数に慣れなくて、書いても書いても原稿用紙の空白が残っていて
500字のたっちで慣れてしまっているから大変でした。
最短1年、最長3年ということだったので一年でやめるつもりだったのがなんとか3年も続きました。
これもひとえに担当してくださったスタッフのおかげです。

始まりがあると言うことは終わりもある。
最終回はどんな内容で締めくくろうか、随想の連載が始まった頃から頭の片隅で考えていました。
(ちなみに“たっち”の最終回はどんな内容にするか連載当初の頃に決めていました)
最終回が見えてきた頃からなんとなく「こんな内容にしたらいいかな」というのが浮かんできて
忘れないように裏紙に走り書きでメモしておきました。

どんな思いで毎回随想を書いてきたのか、そんなことが伝えられたらいいなと思いました。
それから私は小さな頃は文章を書くのは得意ではなかったし
読書感想文を書く時間なんて周りのクラスメイトが一生懸命鉛筆を動かす中で
私は何を書けばいいのか、何を書くことを先生から求められているのか分からなくて
それは作文なども一緒で、全然書けなかった、そんなことも振り返りながら
じゃあ、いつから書くことが好きになったのか、そのきっかけなども書きたかったけれど
でも文字にしてみたらすぐに文字数に達してしまいました。
なんだか書きたいことはもっといっぱいあったんだけどな。

県内の大きな新聞に3年にわたり私の文章を掲載していただけるなんてすごく貴重な経験でした。
ご縁をくださったアリオスペーパーの前編集長に感謝です。

2020年3月4日水曜日

みんゆう随想のこと

パン屋さんに来たお客さんに「新聞に(随想)書いているのって・・・・」と聞かれたので
「私です」と答えると
お正月の(随想)、切り抜いて息子のお嫁さんに送ってあげたらすごく喜んでね」と。
息子さんは私と同年代だったような。
お嫁さん、どの辺りが気に入ったのだろうかと考えて
でも喜んでもらえたのなら私も嬉しい。
私自身、我が子達のこれからのことを考えるとどうしようもなく心配になるけれど
「どの子にもその子にふさわしい未来が開ける」という随想でも紹介したあの本の一節を思い出し
「だから心配しなくても大丈夫だよ」と自分を励まします。

この頃、知り合いからぽつりぽつりと「新聞(に掲載されている随想)読んでるよ」と声をかけらるので
「次回で最終回なんです」というと「あらー、毎回楽しみにしていたのに」なんておっしゃる方も。
随想の連載の終わりが見えてきた頃、最終回はどんな内容にしようかなぁと思っていましたが
意外にも「この内容で締めくくろう」と思うことが浮かんできました。
早く取りかからねば。

2020年2月11日火曜日

子を思う親の心は日の光 みんゆう随想29

先日、急に亡き義母のことを思い出しました。義母と一緒に義兄の部屋の片付けに行ったときのことです。独身の義兄は主人の実家と同じマンションの別棟に住んでいます。東日本大震災の後、私の両親、兄妹とその家族が少しの間、義兄の部屋を借りて生活していました。私たちがいわきに戻ってからもまたいつ避難してもいいようにと義兄の部屋には私たちの生活用品が少し置いてありました。(411日の余震の後は子ども達と妹と双子の甥を連れて義兄の部屋に数日間避難しました)その後、もう避難することはないだろうと判断したので、義兄の部屋にある荷物を処分しに行ったのでした。
 義母と二人でいろんな話をしながら片付けをしていましたが、その時に義母が言ったほんのちょっとしたひと言に、義兄に対する深い愛情を感じました。そして成人した後も義母に心配してもらっている義兄を羨ましく思いました。どうしてそんなことを急に思い出したんだろう?と考えたらもうすぐ義母の命日だったことに気が付きました。もう5年が経ちます。
 そんな話を友人にしたところ、「私もいなくなっても思い出してもらえる人になれると良いな~」と言われました。彼女は私より半年早くに実母を見送りました。
 義母が亡くなった翌年に母方の祖父も亡くなりました。ある時、母が沢山もらったブリを祖父母宅にお裾分けに行った時、祖父が母に「ブリ大根の作り方を知っているか?」とわざわざ母にレシピを持たせたそうです。母は「私だってもう孫がいる歳なのにね。心配しなくてもブリ大根だってちゃんと作れるのに、やっぱり親は子どもが何歳になっても気になるんだね」と笑っていました。  
 そして私の話。私は着るものに無頓着です。何でも子どものもの優先で親のものは後回しになってしまうということを母も分かっているのでしょう。母は買い物に行ったときに衣料品コーナーをのぞいては、気に入ったものがあると買ってきて他の兄妹には内緒で私にそっと渡してくれます。その度に私は母に心配掛けないようにしなきゃと思います。  
   親はいつまでも子どものことを心配しながら歳をとってゆくのでしょう。きっと多分、私もそうなるのかな。

2020年1月4日土曜日

今を大切にしつつ花開くときを夢みる みんゆう随想28

 今月、長女は成人式を迎えます。長女が以前、私にこんなことを聞いてきたことがありました。「私が小さかった頃、お母さんは私がどんな子どもになって欲しいと思って子育てしてきたの?私はどんな子どもだったの?私がどういう性格の子どもなのかその時点で分かっていたの?」どうしてそんなことを聞いてきたのかは分かりませんでしたが、小さかった頃のこと話すと長女は満足したようでした。
 私はその時、次女が生まれた頃のことも一緒に思い出しました。次女の世話をしながら「ああ、この子はどんな顔になるのかな?どんな性格を持って生まれてきたのだろう?」まだ生まれたてで、これからどんな子に成長するかまったく予想できずにワクワクしていました。
  そしてちょうど次女が生まれた頃に義母からもらって読んだ津守房江さんのはぐくむ生活」という本。その中の一節が自分の思いとピッタリと重なったので、その部分をノートに書き留めました。

『“今を大切にしつつ花開くときを夢みる”
 最近我が家の居間に、かな文字の書の額をかけました。先年ガンで亡くなった私の姉の最後の作品です。
 「花のつぼみがひらくところをみたいとおもっていた」
というこの書を朝夕ながめながら、いのちを育てるものの心を考えています。早くみたいと思っていても、蕾を手で開くわけにはいきません。待つよりほかないのです。子育ても不安ではなく、たのしみに花の開くのを待ちましょう。大きな花でなくてもよい。それぞれにふさわしい花であってほしいと思います。どの子にもその子にふさわしい未来が開けると夢みつつ、世話を忘れないように。ときに忘れて、しおれたようすにおどろいている私たちおとなの、足りない部分を神様がお助けくださいますように。』(引用終わり)

 我が家の娘たちの名前には「華」という文字が入っています。「華」はそこにあるだけで周りをホッとさせたり、明るくしてくれます。何か特別なことができなくてもいい、周囲の人を和ませてくれるような女性になってくれたら、という思いを込めて名付けました。二十歳といったらまだ若い蕾でしょうか。どんな華が咲くのかしら?楽しみに待ちたいと思います。

2019年11月27日水曜日

受験生 みんゆう随想27

 前回の随想で絹谷富士は「二千年前、海底火山だった」と紹介しましたが「二千万年前」の間違いでした。ご指摘くださった方、ありがとうございました。文章を書くことは孤独な作業ですが「読んでくださっている方がいるんだ」と嬉しくなりました。
 さてここ数年、毎年受験生を抱える我が家。一昨年は長女の大学受験、昨年は長男の高校受験、そして今年は次女の大学受験。長女の高校受験が終わった時、とてもホッとしたのと同時に「あと二回もあるのか」と思ったものでした。おかげさまで親として迎える高校受験は無事に終わりました。
そして今年は次女の大学受験。私も大学受験したことはありますが、その頃とはシステムも変わり分からないことばかりでした。受験させるので精一杯だった長女の時と比べて今回は私の気持ちにも余裕ができました。
 一昨年と昨年と、次女は受験を迎える姉弟のためにフェルトでオリジナルの合格祈願のだるまを作ってくれました。二人共受験会場に次女の作っただるまを大事に持って行きました。次女の時は私が合格だるまを作らないと、と思いながらもすっかり忘れて推薦入試試験の当日を迎えました。
 長女の大学受験の時は、同伴した私は長女が受験中は宿でゆっくりしている予定でした。ところが宿に行くと周辺の下宿先を紹介する不動産店のパンフレットが置いてあり、合格発表まで仮予約をすることができると書いてありました。下宿先は合格発表の日に探すものだと思っていましたが、予定を変更して長女を受験会場に送り届けてから私は不動産店へ向かい、長女の受験中に下宿先の仮予約を済ませたのでした。
 そんなことがあったので次女受験の数日前、長女からメールがありました。次女が受験中に下宿先の下見をするならば、と物件選びに際してのアドバイスが書かれていました。それまでも長女は妹の模試の結果を気にしてはたびたび連絡をしてくれていました。親だけじゃない、次女には心強い応援団がいるなと嬉しくなりました。
 長女のアドバイスのおかげで学校の近くにいい物件を見つけることができました。合格発表はこれから。次女があの街にどうかご縁がありますように、と願うばかりです。

2019年10月19日土曜日

絹谷富士(きぬやふじ) みんゆう随想26

 台風19号で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。私が住むいわき市でも河川が氾濫し多くの住宅が浸水被害にあいました。一夜にして街の景色が変わってしまったのです。自然の力は私たちの想像をはるかにこえる強大で恐ろしいものでした。水害にあわれた方々の一日も早い復旧と生活再建をご祈念申し上げます。
 私はいわき芸術文化交流館アリオスで月に一度、子どもたちと遊ぶ「あそび工房」でスタッフをしています。「あそび工房」では来場者に“イベントの感想”や“子育て家庭におすすめのスポット”などについてアンケートを行っています。
先日のあそび工房アンケートで、おすすめスポットに「絹谷富士」を紹介してくださった方がいました。私は長年いわき市に住んでいるものの初めて聞く名前でした。まずインターネットで検索しましたが思うような検索結果が得られずそのままになっていました。
しばらくして市内に「絹谷」という地名があることを思い出し、絹谷地区の近くに住んでいる友人に訊ねたところ、絹谷富士のことがやっと分かりました。なんと平にある石森山フラワーセンターの奥にあるとのこと。私は天気のよい日に絹谷富士を目指しました。
 石森山フラワーセンターを通り越してしばらく車を走らせると絹谷富士の看板と駐車場が見えてきます。階段を上って整備された道を行くこと10分。意外に楽な道だと思いきや、頂上手前は急傾斜になっており、上からたれ下がっていたロープをしっかりつかんで登るとそこはもう頂上です。絹谷富士は標高200メートル余りの低山ですが、周りに高い山がないので360度周囲を見渡すことができます。その眺めの見事なこと!
この山にはその昔、地から湧き出した時にある夫人がそれを見て「山が高くなる」と大きな声でいったので山は高くなることを止めた、という伝説も残っています。
絹谷富士の頂上にはちょっと変わったゴツゴツした岩がたくさんあります。2千万年前、この辺りは海底だったので頂上にあるのは海底火山の噴火の名残なのだそうです。市内を一望できる山の上が元々は海底火山だったなんて。海底火山が山の頂上になるまでの長い時間に思いを馳せました。

2019年9月10日火曜日

遠野和紙の紙すき体験 みんゆう随想25

 昨年次女はベラルーシ共和国に研修に行き、現地の女子大生たちにお世話になりました。その中の二人がその後日本に留学していましたが、8月いっぱいで終了して帰国するとのこと。その前にいわきに遊びに来てくれるというので、日本を離れる前に思い出に残るようなことができたらいいなと思いました。
 娘といろいろ考える中で6月のあそび工房での出張紙すき工房を思い出し、みんなで紙すき体験をすることを娘に提案しました。
 当日留学生二人と昨年一緒に研修に参加した市内の男子高校生といわき駅で待ち合わせて、そこから車で一時間弱のところにあるいわき市遠野町入遠野地区へ移動しました。近くにオートキャンプ場のある自然豊かな場所です。
 工房で迎えてくれたのはいわき市遠野町地域おこし協力隊の平山さんご夫妻。まずは和紙や遠野和紙についてお話を伺いました。和紙の工房は日本全国、各都道府県にあり、福島県では二本松市(道の駅 安達)といわき市遠野に工房があります。遠野和紙は四百年前から受け継がれ瀬谷安雄さんが最後の継承者でした。その後いわき市が継承者を募集し、川崎から平山さんご夫妻が移住してきました。ご夫妻は遠野町地域おこし協力隊として紙すき継承のほか、遠野町のおすすめスポットなどの情報を発信しています。
 平山さんからお話を伺って驚いたのは日本の紙幣は和紙でできているということ。和紙は洋紙と比べて丈夫(繊維が相互に絡みついているから)であり、長期保存ができる特徴などを聞きました。また遠野地区では小中学校の卒業証書は遠野和紙でできており、県立遠野高校では生徒は自分の卒業証書の紙を自分ですいているのだそうです。
 工房では和紙づくりにかかせない植物「コウゾ」と「トロロアオイ」も栽培しているので見せていただきました。それらの植物を加工し、紙すきの原料になる過程を聞いた後でお待ちかねの紙すき体験へ。それぞれポストカード大の和紙をすきました。簡単に見える作業でも仕上がりは人によって異なるのだとか。
留学生二人も日本の伝統文化に触れる貴重な体験ができて大変喜んでいました。遠野和紙の紙すき体験に興味がある方は平山さんへ連絡してからお出かけくださいね。
 

2019年8月1日木曜日

饅頭と岡山 みんゆう随想24

 埼玉にある主人の実家に帰省して泊まりに行くと、義母は生前、主人が小さかった頃の話だけでなく、義母自身の話もよくしてくれました。私はいつも頭の中で義母の故郷である岡山県倉敷市の風景を想像しながら話を聞いていました。そんな中、実際に行って見てみたいという思いが強くなり、5年前の夏、家族で倉敷に行きました。
 義母のすぐ上の兄が倉敷にあった義母の実家の近くに住んでいるので、義母が育った街を案内してくれました。昔と比べれば開発が進み、田んぼだった場所に新しい家が建つようになったそうですが、昔ながらの家屋が建ち並び、車のすれ違いができないような細い道や街の中を流れる川が印象的でした。義母が通っていた母校は新しくなっていましたが、両親に連れられて通っていたキリスト教会は当時のままだそうです。
 途中で立ち寄った藤戸寺(ふじとじ)には能の謡曲「藤戸」にもなっている伝説があります。その昔、この辺りは浅瀬で、源平合戦の際に佐々木盛綱が若い漁師に道案内をさせて戦いに勝利しましたが漁師を口封じのために殺害しました。漁師の母親は「佐々木憎けりゃ笹まで憎い」と山の笹を抜き、その山に笹が生えることはなく“笹無山”と呼ばれるようになりました。佐々木盛綱が漁師や合戦で命を落とした人を弔うために建てたのが藤戸寺だそうです。
 藤戸寺のすぐ近くにあるのが「藤戸饅頭」のお店。映画「ALWAYS三丁目の夕日」は岡山でもロケをしたそうで、義母は映画を観て懐かしい場所がいくつも出てきたと言っていました。映画に登場した和菓子店がまさにこのお饅頭屋さんです。義母が小さかった頃、ここでできたての温かいお饅頭をよく買ったものだと、伯父の家でそのお饅頭をご馳走になり、お土産にもいただきました。
 この「藤戸饅頭」、ひとくちサイズに丸めたこしあんを白いごく薄い皮で包んで蒸し上げた酒饅頭で、こしあんが大好きな私はほとんどあんこでできているこの「藤戸饅頭」の大ファンになりました。日本三大饅頭である岡山の「大手饅頭」は「藤戸饅頭」とそっくりです。
 岡山のお土産といえばきびだんごが有名ですが、岡山方面にお出かけの際はぜひ「藤戸饅頭」や「大手饅頭」を召し上がってくださいね。

2019年6月24日月曜日

魔法の夜 みんゆう随想23

 「座敷わらしの宿」として最近テレビで紹介されている「タガマヤ村」。ホームページを見ると宿泊の予約は一年先までいっぱいです。山形県にある古民家を丸ごと一晩借りることができます。
 もう十年以上も前になりますが、ここに宿泊したことがあります。当時は今ほど予約も混み合っていませんでした。私が提案した旅行で、大勢で泊まるのにいいだろうと兄が見つけてくれたのでした。
 山形への旅行は当時小学生だった我が家の子どもたちの、運動会の振替休日を利用しました。その年のゴールデンウィークに「自分たちのルーツをたどる旅」と称して主人の父方の祖母に会い、父方の祖父と母方の祖父母のお墓参りに子どもたちを連れて行った話は以前にこの随想で紹介しました。今度は私の父の祖父母のお墓参りと、祖父母のゆかりの地を巡ることにしました。(母方の祖父母はいわき市内出身)
 両親と私の兄妹にも山形行きの話をすると「それならばみんなで行こう」という話になりました。私は9人兄妹で仕事や学校で参加できない人もいましたが、兄や妹、結婚している妹3家族、私の母方の祖母、総勢20人での旅行になりました。
 「タガヤマ村」の母屋は昔ながらの古民家で、土間やかまどがありました。外にある蔵の二階には蚊帳が吊ってあり、庭の木の上にはツリーハウス、納屋の中には卓球台がありました。母屋にもアンティークの家具や古いテレビ、ふくすけ人形が置いてあり、昭和の時代にタイムスリップしたようでした。
 食事は台所があったので炊飯器やお米、食材などを持ち込み、わいわいガヤガヤと実家でご飯を食べるときのようににぎやかに食卓を囲みました。お風呂はついていましたが、みんなで入るには時間がかかるので近くの銭湯に行きました。
 「タガマヤ村」での一番の思い出は、父が祖父の話をしてくれたことです。父が中学生の時に亡くなったので母も祖父のことは知りません。母が仲人さんから聞いた話をしてくれたり、伯母たちの話で祖父の姿を想像するだけでした。あの夜、いつもは口数の少ない父が嬉しそうに私たち兄妹に祖父の話を聞かせてくれました。座敷わらしには会えなかったけれど、とても幸せな夜でした。












2019年5月16日木曜日

私の母校 みんゆう随想21

 先日、いわき市小名浜にある三崎公園に行きました。色とりどりのツツジが見事に咲いており、隠れた名所を見つけたと嬉しくなりました。
 私が高校三年間を過ごした島根県松江市にある母校もツツジがきれいでした。松江駅からバスで三十分ほどゆられ終点まで行った松江市南郊の大庭(おおば)地区に学校がありました。 
 校門から急傾斜の坂を上って校舎へと向かうのですが、道の両側にツツジが植えられており、今の季節はピンク色の花を咲かせます。葉の緑色が花のピンク色を一層鮮やかに際立たせてとてもきれいでした。
 学校の屋上に上がると宍道湖(しんじこ)が遠くに見えました。学校の周りは田園風景が広がり、屋上から見ると初夏は緑、秋は黄色の絨毯が広がっているようでした。
 通っていた当時は何もない田舎だと思っていましたが、学校の下には「神魂(かもす)神社」という出雲大社よりも四百年古く、出雲大社と同じ大社造りの神社や、古墳や資料館のある「八雲立つ風土記の丘」がありました。その昔、大庭地区は古代出雲の中心地だったそうで、島根県を代表する文化財(史跡や社寺等)が集中しています。また十月は全国の神様が出雲大社に集まるという伝説から出雲以外は「神無月」と呼びますが、出雲では十月を「神在月(かみありづき)」と呼んでいました。
 私が二・三年生の時にお世話になった寮の近くには「八重垣神社」がありました。ここは日本神話に登場する櫛名田姫(くしなだひめ)が八岐大蛇(やまたのおろち)から身を隠していた場所といわれ、八岐大蛇を退治した須佐之男命(すさのおのみこと)は日本最古といわれる和歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣造る その八重垣を」と歌い二人は夫婦になりました。この歌が出雲の国名の由来といわれています。 
 この神社では鏡の池”で恋占いができます。社務所で売られている薄い半紙の中央に小銭をのせて池に浮かべるとお告げの文字が浮かびます。紙が遠くの方に流れて行けば遠くの人と縁があり、早く沈めば早く縁づくといわれています。私も友達と一緒にやったことがありました。どんな結果だったのか今はもう覚えていませんが、東京育ちの主人と出会うきっかけは私がこの島根にある高校に通っていたことでした。縁とはとても不思議なものだなとつくづく思います。

2019年3月5日火曜日

名前の話 みんゆう随想20

 長男は中学校で来週執り行われる卒業式の練習をしています。当日、呼名されたら息子が元気な声で返事をするのを私は楽しみにしています。
 私は学童保育の送迎の仕事をするようになってから名前を呼ばれることが多くなりました。学童保育では子どもたちはスタッフを下の名前で呼びます。だから子どもたちは私を「あきこ先生」と呼びます。名字でもなく、あだ名でもなく、「お母さん」でもない。名前を呼ばれることで私はより一層私らしくなれるような気がするので、子どもたちに名前を呼ばれることが嬉しいです。
 私の名前は母が、ひとつ年上の兄は父が名前をつけました。母は女の子が生まれたらこの名前にしようとずっと決めていたそうです。でも幼い頃の私は「違う名前がよかった」と母に言っていました。今思えばとてもひどいことを言っていたと思います。
 思春期になり、自分に自信がない私は自分の名前が好きではなくなりました。現実の自分を受け入れられず、違う自分になりたいと思っていたのでしょう。
 でもつい数年前、やっと「私の名前、悪くないな」と思えるようになりました。それは「名前は その人のために用意された 美しい祈り」で始まる“名前は祈り”という詩を知ったからです。その詩は脳科学者である黒川伊保子さんの著書「怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか」をヒントにして書かれたものなので彼女の他の著書も数冊読んでみました。
 そこで私は「音相(おんそう)」という考え方を知りました。言葉は意味だけでなく、意味にまつわるイメージや雰囲気を伝える働きがあり、そのイメージや雰囲気は音によって伝わるのでそれを「音相」と呼ぶのだそうです。 私の名前からどんなイメージが連想されるのかを相の本で調べてみました。そこに書かれていることを読んで「やっぱり私の名前はこれしかない、この名前でよかった」とやっと思えました。何度もその名前で呼ばれることで、私は私になってきたのです。「名前は祈り」の詩がより一層味わい深く感じられ、大事な人たちの名前がとても愛おしくなりました。そして私が幼い日、父母より何度も授かったであろう美しい祈りと願いに思いを馳せました。

2019年2月1日金曜日

シベリアの話

みんゆう随想でシベリア抑留から帰還したご主人の話を紹介したところ
いつも原稿のやりとりをしている新聞社の方からこんな話を聞きました。

シベリア抑留者と家族については私も20年ほど前に取材したことがあります。
帰還者の名簿に夫の名前を見つけ、待っていたが
帰ってきた人は同じ町の同姓同名の人だったというつらい出来事もあったようです。

奥さんの気持ちを考えるとなんと言っていいか分かりません。


正月に帰省したときに義父から
主人の父方のおじいさんがシベリアに何年か抑留されていたことを聞きました。
義母から父方のおじいさんの話はよく聞いていて
戦争に行っていた話ももちろん聞いたけれどどこに行っていたのかまでは知らなくて
おじいさんは穏やかな人だったと聞いていたけれど、大変な苦労をしていたんだなぁと。
おばあさんは今も元気だけれどおじいさんは私が結婚した頃にはもういなくて。
おじいさんの話、もっと聞きたかったな。


2019年1月29日火曜日

心が動いた話 みんゆう随想19

 それは元旦のことです。福袋を購入するのに早朝から並んでいました。販売開始までだいぶ時間があったのでスマートフォンを取り出し、インターネットのページにアクセスして目についたエッセイを読んでいました。
 ある夫婦の話でした。妻が夫にある嘘をつきます。夫はその嘘に気づくのですが、夫はその嘘にずっと気づかないふりをしていたのです。夫が妻を思う気持ちに思わず涙がこぼれました。よく見ると2018年のエッセイコンテストで最優秀賞を受賞した作品でした。おおいにうなずけました。
 そういえば前にも元日に感動する話を読んだことがあったな、と思い出しました。
 毎年、お正月は主人の実家で過ごしています。数年前の元旦。お餅を焼こうとストーブがある義母の部屋に行ったところ、ある本を見つけ「もしかして」と思いました。
 結婚式を数ヶ月後に控えていた頃のことです。勤務先に置いてあった本を何気なく読んでいた時にその話に出合いました。感動して涙がとまらなくなり、誰かに泣いていたことが分かってしまうのではないかととても焦りました。
 それは、戦争が終わり夫が抑留されていたシベリアから帰ってくる話です。明日帰宅する、という連絡を受けた妻は野菜を調達するために奔走し、この日のために蓄えておいた米と調味料でささやかな料理を作って夫を迎えます。しかしどんなに頑張っても夫の好きなお酒は用意できず、妻はおちょうしに白湯を入れて酌をします。夫をだましているような気がして顔を伏せ涙をこぼす妻に夫はゴクリと白湯を飲んで「美味しいよ」というのです。はっと顔をあげると夫の目からも涙があふれていました。
 国内の生活物資が欠乏していることを夫も知っていて、杯の湯を口にした時、妻の努力や思いを一瞬で察したのでしょう。互いが互いを思いやる、こんな夫婦に私もなりたいな、そう思いました。
 あの時は何気なく手に取っただけだったので本のタイトルを見てはいなかったのですが、あれから十年以上の時を経て、まさかまたこの本にめぐり会えるとは、それも元日に。そう思って嬉しくなりました。
 そしてこの本は今、私の手元にあります。

2018年12月25日火曜日

座敷童子の秘密基地 みんゆう随想18

 私は「いわきこどもプロジェクト」の名前でブログフェイスブックページを開設し、市内の子育て情報や生活情報を発信しています。
 最近、インスタグラムも始めました。市内のイベント情報を発信する「いわきこどもプロジェクト」と町の情報を発信する「キッズ★アリペ」の2種類のアカウントがあります。
 フェイスブックページやインスタグラムでフォローされると「どんな人がフォローしてくれたんだろう?」と思って私も相手のプロフィールを確認します。
 「座敷童子の秘密基地」もそうやって見つけた場所です。今年の春に関西からやってきた看護師1年生の女の子が「誰かに会いたいな~、話したいな~」と思った時の“誰か”になることを目指して「場」づくりを始めました。自分の仕事の休みに合わせ、月に2回程度、市内のとある集会場で、飲み物やお菓子、絵本や落書き帳、折り紙などを用意して、立ち寄ってくれた人がおしゃべりしたり、のんびり過ごせる空間をつくっています。  
 記念すべき第一回目の秘密基地の日。仕事の合間の長い昼休みを利用して私も行ってみました。広い和室に先客はいませんでした。「手浴と足浴、どちらがいいですか?」と聞かれ手浴をお願いするとたらいにお湯を張ってゆずを浮かべてくれました。温かなお湯に手を浸しながら、どうして就職先を福島の病院にしたのか聞いてみました。京都出身の彼女は東北に憧れがあり住んでみたかったのだそうです。それから彼女のお仕事の話、我が家の子どもたちの話などをしながら、将来的には復興住宅なども訪問して入居者の話し相手になったり、そんな活動ができたらいいなと話してくれました。
 私はてっきり彼女はその集会所の近くに住んでいるのかと思いきやなんと職場から近い、とある海のそばだそうで、最寄り駅まで自転車で向かい、その集会所も決して駅の近くではないのですが、大きな荷物を抱えて駅から歩いてきたとのこと。彼女の思いと行動力に心を動かされました。
 今後も自分の休みを利用して「座敷童子の秘密基地」を行うそうです。来月の予定などはインスタグラムツイッターでお知らせするそうですので、興味のある方はぜひ検索して下さいね。

2018年11月20日火曜日

自習室 みんゆう随想17

  我が家には大学生と高校生、中学生の子どもがいます。子どもが高校生になって変わったことは、自宅で勉強するよりも自宅の外で勉強することが増えたことです。というのは、自宅に帰ってきてしまうと、テレビやマンガ、携帯電話など誘惑が多く「勉強しなくては」と思ってもついつい他のことに時間を消費してしまうからです。
 塾に通っていれば自習室が利用できるのですが、土日祝日も自習室が利用できる塾は少なかったり、自習室があっても部活が終わってからの時間帯だと席が空いていなかったり、自習室がない塾もあります。
 いわき駅前にある総合図書館には学習室(週末には中学生専用の自習室“学校支援ルーム”があります)があるので、そこを利用することができます。しかしながら市内の図書館すべてに自習室があるわけではなく、自習室がない図書館の方が多いのが現状で、図書館が近くにない地域もまた多いのです。我が家でも「家の近くに自習室があったらいいな」と思うことがありました。
 そんな中、市内にも少しずつ若者を応援する動きが出てきました。勿来地区の生徒は近くに自習室がなくて不便を感じているだろうと、地元企業が勿来駅の目の前に「自学自習空間Ma na bu 」をオープンさせ、運営しています。
またイオンモールいわき小名浜店近くにできた「まちもりシオカゼ」。1階には「シオカフェ」、2階にはレンタルスペース「港町BASE」があり、レンタルスペースの予約がない時間は勉強や友達とのおしゃべりに利用して欲しいと学生に無料開放しています。まちもりシオカゼが小名浜地区の課題として捉えている「学生が時間を過ごす場所がない」ことの解決のきっかけになれば、という思いが込められています。
 我が家はというと、高校生の娘は部活が終わってからの時間帯でも使うことができる自習室がないかとさがしてました。最近、自宅の最寄り駅のすぐそばにある放課後等デイサービスで、利用者が帰ったあとの教室で自習させていただけることになりました。
 市内のあちこちでこういった動きがあり「街全体で若者を育てる」という大人たちの思いを感じます。親としてとてもありがたく、嬉しく思います。

2018年12月18日でシオカフェの営業は終了し港町BASEもしばらくお休みするようです。
詳細はこちらです。

2018年10月16日火曜日

日本・ベラルーシ友好訪問団2018 みんゆう随想16


娘はこの夏、“日本・ベラルーシ友好訪問団2018”に参加しました。
ベラルーシ共和国は32前に起きたチェルノブイリ原発事故によって国土の4分の1が放射能に汚染されました。
 この友好訪問団の目的は、浜通りの高校に通っている高校2年生が「日本」と「べラルーシ共和国」の現状を調査し、「日本」「福島県」のことをベラルーシの皆さんに伝え、記憶の継承」と「リーダーシップ」を考えるものです。
 実際に汚染で立ち入り禁止となっている放射線保護区のゲート前の見学をしたり、国の取り組み(補償や農業政策や産業、教育、情報発信など)について説明を受けました。子どもたちが訪れる保養所の見学では日本との補償の違いを見てきました。原発事故で放射能汚染の対策にあたった専門家の先生のお話も伺いました。
 東日本大震災や福島の原発事故の記憶を継承するにはどうすればいいか、チェルノブイリ原発事故の資料を展示する博物館や、第二次世界大戦で激戦地だったベラルーシに残る戦争遺構の見学も行いました。
 「日本」「福島県」のことをベラルーシの皆さんに知ってもらうため、現地で各班ごと与えられたテーマでプレゼンテーションを行いました。娘の班は「地方の課題・福島の課題」というテーマで「買い物難民について」発表しました。メンバーはいわき、広野、相馬と住んでいるところはバラバラでしたがSNSを使って話し合い、大人スタッフの協力もあって苦労しながらも資料を作成し、発表することができました。
 またいまだ帰ることのできない大熊町。その大熊中学校で代々、踊り次がれてきた「ソーラン節」を、大熊の人たちの思いを胸にショッピングモールで披露し、福島の元気を伝えました。
 30年後を見据え、浜通りの復興を担うリーダーを育成したい、と浜通りの企業から協賛を得て特定非営利活動法人ハッピーロードネットが主催した事業です。先週、日本での最後の研修がありました。双葉町に中間所蔵施設や特定廃棄物埋め立て情報館リプルン福島、福島第二原発の視察を経て、大勢の大人たちの前で「報告会」を行い、友好訪問団は解団しました。これからも仲間たちとともに福島復興の活動していく娘を応援したいと思います。