2022年8月2日火曜日

「幼い子は微笑む」 長田弘

声をあげて、泣くことを覚えた。

泣きつづけて、黙ることを覚えた。

両の掌(てのひら)をしっかりと握りしめ、

まぶたを静かに閉じることも覚えた。

穏やかに眠ることを覚えた。

ふっと目を開けて、人の顔を

じーつと見つめることも覚えた。

そして、幼い子は微笑んだ。

この世で人が最初に覚える

ことばでないことばが、微笑(びしょう)だ。

人を人たらしめる、古い古い原初のことば。

ひとがほんとうに幸福でいられるのは、おそらくは、

何かを覚えることがただ微笑だけをもたらす、

幼いときの、何一つ覚えていない、

ほんのわずかなあいだだけなのだと思う。

立つこと。歩くこと。立ちどまること。

ここからそこへ、一人でゆくこと。

できなかったことが、できるようになること。

何かを覚えることは、何かを得るということだろうか。

違う。覚えることは、覚えて得るものよりも、

もっとずっと、多くのものを失うことだ。

人は、ことばを覚えて、幸福を失う。

そして、覚えたことばと

おなじだけの悲しみを知る者になる。

まだことばを知らないので、幼い子は微笑む。

微笑むことしか知らないので、幼い子は微笑む

もう微笑むことをしない人たちを見て、

幼い子は微笑む。

なぜ、長じて、人は

質(ただ)さなくなるのか。たとえ幸福を失っても、

人生はなお微笑するに足りるだろうかと。


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