2017年1月14日土曜日

絵本美術館のこと 巻美佳砂先生にお伺いしました ③

 30年の時を経てできた絵本美術館

まず最初に、絵本美術館ができた経緯を伺いました。絵本美術館は市内にあるいわき幼稚園、ありす幼稚園、白ばら幼稚園の附属施設です。幼稚園では入園すると一人ひとり絵本のカルテをつくります。入園してから読み聞かせしてもらった絵本、週2冊借りて読んだ絵本。3年間で600冊にもなり、卒園の時にプレゼントされます。そして絵本のカルテを見るとその子の趣味や嗜好が分かるといいます。

幼稚園には絵本の部屋がありますが、どうしてもまわりの音や様子が気になって絵本の世界に集中することができません。子ども達にはどっぷり絵本の世界に入って欲しい、それができるように絵本美術館をつくりたいと思っていた前園長の巻レイ先生。10年かけて土地を探しました。すると海を見下ろす場所にイメージ通りの、山も海も砂浜も、自然が、大好きないわきのいいところが全部集まった場所を見つけました。
するとレイ先生、大好きな安藤忠雄先生にお手紙を書いたそうです。ぜひ絵本美術館の設計をお願いしたい、と。手紙と一緒にレイ先生が見つけた土地の、素晴らしい海の景色の写真も同封し、金曜日に速達で出したそうです。(速達で出す手紙って、まるで愛しい人に出す恋文のよう)すると月曜日になんと安藤先生から電話がかかってきたのだとか。一度、その場所を見てみたい、と。海外への出張を1週間後に控えていた安藤先生。豊間(とよま)の海を見て大阪に戻られたそうです。するとOKの返事が来て、なんと1週間で話が決まってしまったのだとか。ちょうど大きな仕事が終わったところで、もしこの手紙が1週間遅かったら安藤先生はこの仕事を引き受けられなかったのだと。
その後、絵本美術館の模型ができたと連絡が来てレイ先生は大阪に行きます。

レイ先生は昔から安藤忠雄先生の大ファンだったそうです。経営する3つの幼稚園を建てたりしていたので建築雑誌もよく見ていて、安藤先生の本も沢山読んでいたのだそう。
絵本美術館の設計をお願いするにあたり、レイ先生がお願いしたのは絵本の背表紙でなく表紙を展示したい、たったそれだけでした。表紙には絵本の中味が凝縮されているからです。そしてコンクリートの打ちっ放しの、無機質な建物は絵本の表紙の美しさを際立たせていました。

10年かけて探し出した理想通りの土地にイメージぴったりの建物を建てられるのは安藤さんしかいない。しかし50坪しかない土地に絵本美術館が建つのだろうか……。地元の人や幼稚園の設計を担当した方にも図面を描いてもらったことがあったそうですが、レイ先生のイメージしたものではありませんでした。
当時、絵本美術館が安藤先生にとって東北初の仕事でした。安藤先生は景色が素晴らしかったので景色を損なわないように、と絵本美術館を設計したそうです。
絵本美術館に行かれたことがある方はわかると思いますが、建物に入ると階段を下がっていく造りになっています。地下にあたる部分は傾斜面をほとんどくりぬいて、そこに建物をはめ込んだようになっているそうです。そして11メートルの天井をつくりました。土地が狭い分、上に空間をとったのだそうです。まさに安藤先生だからこそできた建物だと言えましょう。
“建築とはいかにして空間をつくることである”という言葉があるそうですが、まさにそれだと巻美佳砂先生。
絵本美術館は平屋建て、地上1階、地下1階、ロフトの5層構造になっています。駐車場側から見ると確かに平屋建てに見えるのですが、中に入ってみるともっと広いように感じました。

絵本美術館は階段に沿って絵本が並べられています。また中央の壁面は巨大な木の書架になっています。いい絵本は地味な色が多く、この絵本美術館を生かせるか生かせないかは絵本の並べ方次第。巨大な書架をモザイク画のようにしよう、と決めました。日本の絵本はちゃいろが多いのですが、海外の絵本は明るい色やきれいな色の絵本が多く、グラデーションになります。
工事現場のような足場を組み、50㎝ほどの幅の階段を上って一冊ずつ絵本をはめていきます。レイ先生が遠くから色の配色を考えて指示を出し、娘の美佳砂先生が絵本を配置する。母娘の作業は3ヶ月かかりました。
中にはネコを絵本を集めたコーナーや、ネコがあるならイヌの絵本も、とネコとイヌの絵本のコーナーがお隣同士に、階段の下には絵本の歴史を語る本が配置されていました。

絵本美術館に子ども達が来ると、まずは大きな絵本の棚の前に座らせます。天井近くまで絵本が展示されており(絵本美術館には1500冊ほどの絵本が展示されています)子ども達はその絵本の数に圧倒されます。
そして世界には沢山の本があるんだよ、という話をした後、古い本を見せて「大事に絵本を扱えばずっと残していけるんだよ」と話すと子ども達は絵本を丁寧に扱うそうです。それから子ども達は思い思いの場所に行き、好きな絵本を読むのだとか。自由に絵本を読める。階段で、縁側で、お友達とお話をしながら、窓の外を見ながら。そうすると子ども達は「絵本って楽しいな」と思うのです。

レイ先生が30年思い描いていた夢がやっと実現したと思ったら、平成17年5月5日の絵本美術館の落成式で「私には夢があります」とレイ先生。美佳砂先生はその言葉を聞いてびっくりしたそうです。そして5年後の平成22年5月4日にレイ先生は先に旅立ったご主人の元へ逝ってしまうのですが、ついぞその夢の内容を娘の美佳砂先生にあかすことはなかったそうです。120歳まで生きる、と公言していたレイ先生。いつも先を見て生きてきたレイ先生があっという間にいなくなったので、いなくなった気がしなかった、と。


絵本美術館と震災


 でもあの大変な震災の前でよかったのかもしれない、と美佳砂先生はいいます。震災で園児の半分は避難しました。震災直後の1年は、除染につぐ除染。どんなに大変だったことでしょう。

 レイ先生は絵本美術館の場所を探すとき、万が一のことを考えて高台にこだわりました。きっと勘のよい人だったのでしょう。
 絵本美術館がオープンする前に中越地震が起きました。いわきも大きく揺れ震度4でした。ちょうど足場を組んで絵本を並べていたところでしたが、杭を深く打ち込んだ建物はびくともしませんでした。安藤先生も「地震の時は絵本美術館に避難するように」といわれたほどです。さすがに震災のときは半分ほど、絵本も落ちてしまったそうですが、被害はそれだけでガラスなどが割れることはなかったそうです。

 震災の一週間前、水平線の際がくっきりと濃い青と、青、紫色の3層に分かれて見えたのだそうです。太平洋の水平線がよく見える絵本美術館では、先生方はそれまでの経験で海水に色の層ができると地震になることを知っていました。といっても、色の層は1層だけで3層になったのは初めてでした。「地震が来るのかもしれない」となんとなく感じてはいたそうですが、まさかあんな大きな地震になるとは。

 ちなみに絵本美術館の床のワックスかけを月に何度か美佳砂先生と沢田先生と2人で行うそうです。大切な絵本美術館だから自分たちで一生懸命、きれいにするのだとか。

 幼稚園も震災後、一年間休園したい気持ちもありました。でも保護者の方からの要望もあり再開しました。500人いた園児は250人になりました。
 何かあったら園児を連れて避難しなければいけない。園バスに簡易トイレや食料を積み、いろいろなルートを園バスで走ったこともあったそうです。

 震災当日、一番最後まで残った園児を保護者に引き渡したのは20時でした。豊間に家があった先生も何人かいましたが、園児を保護者に引き渡して自宅に戻ると津波で家が流されていた、そんな先生もいたそうです。もし地震の後すぐに自宅に戻っていたらどうなっていたでしょう。幼稚園が、園児が先生を守ってくれたのかもしれません。

 震災後半年、幼稚園でも外遊びはお休みでした。しかし絵本美術館は鉄筋コンクリートでできているので、室内は震災前と同じくらいの低い放射線量だったので、園児達を安心して連れて行けたそうです。園児達は大喜びで絵本美術館の中を走り回っていました。

 20年くらい前に卒園していった園児の父兄から「(レイ先生が亡くなったのは)震災前でよかったですね」といわれたそうです。あの大変な経験をしなくてよかった、と。
みんなに愛されたレイ先生。レイ先生の訃報は在園児にのみ知らせたのにもかかわらず、在園児の保護者から卒園児の保護者へ伝えられたのでしょう、お別れ会には沢山の方がいらっしゃったそうです。

 安藤先生の建築は色のない無機質なコンクリートで、荘厳さを感じるのが特徴ですが、安藤先生の様々な建築を見てこられた方がおっしゃるのは、この絵本美術館は安藤先生の作品の中で一番あたたかい建築ですね、ということ。それはきっと絵本の様々な色が入っているでしょう、と美佳砂先生。


絵本美術館のこれからの展望


震災前と後では絵本美術館の色合いが変わってきていると美佳砂先生。そしてやっと落ち着いてきた、と。
そして絵本美術館は第2ステージに入っていると思います。
震災後34年経って豊間の人たちが見学に来てくれたそうです。今までは怖くて海の方に来られなかったけれど、やっと来られた、と。
豊間や江名の町は震災後、さみしくなってしまいました。でも、高台にある絵本美術館を見ると「まだ大丈夫」と思えるのだと地元の方からいわれたそうです。だからもっと地域の方、地元の方に絵本美術館に足を運んでもらいたい。
絵本美術館は全国にはいくつかありますが、海の前の美術館はここだけなのだそうです。全国から安藤先生の建築のファンや絵本が大好きな方がよく訪れるのですが、残念ながらいわき市内の方にはあまり知られていません。
絵本美術館はあくまでも幼稚園の附属施設なので開放できる時間が限られてしまいます。月に12回の一般開放日に幼稚園の先生が対応することになっています。申込み方法は往復ハガキで申込みをすると、日時を指定した招待状が届くので、それを持参して見学にお越しください。クリスマスの時は少し回数が増えます。毎年、テーマを決めてツリーを変えています。クリスマスの時期が一番おすすめですよ。


美佳砂先生から最後に


どんなに忙しくても寝る前の5分間だけはお子さんに絵本を読んでください。忙しかったレイ先生も読んでくれたそうです。
絵本カルテからは子どもの成長が読み取れます。
絵本美術館はレイ先生の実体験から生まれました。2歳の時に父親を亡くし、9人姉妹の末っ子だった先生。生家は大きな農家でしたが本には不自由したので、大人になってからは本を沢山買い、ずっと本を読んでいました。絵本美術館の書庫には15千冊の本があるそうです。
(※詳しくは巻レイ先生のエッセイ「おとなの想像力」をご覧ください)


おまけ 絵本美術館のこぼれ話


安藤先生の建築をひと言でいうと「何の説明も要らない」こと。
安藤先生が設計した司馬遼太郎記念館には吹き抜けの大きな書架があり、背表紙が大量に並んでいて司馬遼太郎の生き様が一目で分かります。
また、レイ先生が持っていた「世界のミュージアム」という写真集にあるアウシュビッツのホロコーストミュージアム(※参照)。壁一面にはモノクロの遺影で埋め尽くされ、何の言葉も説明も必要としない。一目で分かるその空間に衝撃を受け、こんな空間をつくりたい、これを絵本で再現したい、と思ったそうです。
安藤先生がつくった絵本美術館の模型を見たとき、まさにレイ先生が思い描いていたものがそこにあった。きっと安藤先生なら思い描いているものを形にしてくれるだろうとレイ先生は分かっていたのでしょう、だから模型を見たときにとくに感動も驚きもなかったので安藤先生は物足りなさを感じたそうです。



実際にインタビューしてみて 


何度か足を運んだことはあっても話を聞いてみないと分からないことが沢山ありました。もしかしたらあそこにあの絵本美術館ができるのは、きっとずっと前から運命みたいに決まっていたんじゃないだろうか、と私は思いました。

 アリオスペーパーでは伝えられないことが沢山あったのでたっちでも絵本美術館のことを紹介しました。でも私が聞いたお話をもっと知っていただきたいと思い、こちらでもシェアしました。
絵本美術館、ステキなところです。




※巻美佳砂先生より後日いただいたメールより
お話した母がイメージしていたホロコーストミュージアムですが、世界各国にある中、たぶんワシントンにある博物館だったように思います。
各国でコンセプトが大きく違うのですが、有名なイスラエルのヤド・ヴァシェムよりインパクトがあります。
母が見ていた「世界のミュージアム」という写真集では、たぶんこのアングルで撮られていました。今、手元にないので残念ですが。
この一枚の写真に母は言葉を失い、「これが絵本だったら…」と、漠然としたものが一瞬で形になった瞬間だったように思います。
この回廊を、何万というモノクロの遺影に見つめられ見降ろされながら一歩一歩館内を進んで行く…年譜や解説などまったく意味がないと感じられる体感的なミュージ
アムです。





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