津久井山ゆり園の事件の日にあわせて2日間のみ一般公開された映画 帆花を観ました。
去年も事件の日にあわせて2日間公開されたみたい。
脳死状態で生まれた帆花ちゃんとご両親の生活を追ったドキュメンタリー映画。
子どもの人権や「生きる」ことについて考えたり、意思表示のことを思ったり、後見人のことや
この映画を観た後だったら先日提出したレポートは内容がもうちょっと違っていただろうか
お父さんやお母さんにとってのソーシャルって何だろう、「生活」において大事なものはなんだろう
とレポートの課題を思い出したり。
社会福祉士はこういった人たちとともに歩んでいく、そういう仕事なんだよなぁと思ったり。
脳死状態で生まれて、当初は脳波さえないだろうといわれていたけれど
お父さんやお母さんが日々話しかけ、愛情たっぷりに接することで
声が出るようになったり、問いかけに声で反応したり、人ってホントにすごいなぁって。
試しに脳波に反応して動く猫耳のおもちゃをつけてみたら、動く動く猫耳。
脳波がちゃんと出ている。愛情が人を成長させたんだなぁって。
どんどん成長していく帆花ちゃん、髪も伸びてかわいらしい女の子になりました。
そして、脳死ってどうなんだろう?と思いました。
帆花ちゃんはほぼ脳死状態で生まれた(出産のときにへその緒が切れて酸欠になった)けれど
意思表示ができるようにまでなったのだから。
脳死は人の死なのだろうか?(臓器提供のこともあるけれど)
帆花ちゃんを見ていたら、そう思えないと思いました。
そういえば以前、帆花ちゃんと同じようなお子さんの話を読んだことがありました。
だいぶ昔のことで、県内にある病院の院内学校に赴任してきたある男の先生と男の子の話。
男の子は重度の障害を持っていていつもほとんど眠っていて、寝たきりで
発語もほとんどないので意思疎通もできない。
彼はずっとあのままだろう、と今までの先生たちは思って接していた。
ある男の先生が赴任してきて、その先生は男の子の病室に毎日通っては話しかける。
他の子に話しかけるのと同じように「○○くん、先生だよ」と言って。
時間はかかったけれど、やがて先生の言葉に反応するようになって
最終的にはずっと寝たきりだった男の子は
病院の中庭にあったブランコに乗れるほどにまで回復したような
確かそんな話だったんじゃないかな。
今までの先生はみんな「どうせダメだよ」とずっと諦めていたけれど
その先生だけは諦めずに根気よく、他の子どもに接するように同じように話しかけ
愛情をかけて接した、その思いが彼の成長を促した、そんな実話だったと思います。
映画の中でもお母さんが話していた、帆花ちゃんはホントは思っていることはあるけれど
それをアウトプットすることができないだけなんじゃないか
もしそうだったらどんなにつらいだろうか、と話していて
私も映画を観ながら私もちょうど同じことを思ってせつなくなっていて
もしかしたら彼女は表現できないだけで意思や感情は内側に溢れているんじゃないか
それが伝えられないだけなんじゃないかって。
もしそうならそれがどんなにつらいだろうか、と涙がこみ上げてきそうになっていたけれど
それは本人だけじゃなくお父さんやお母さんにとってもホントにつらいこと……。
そしてそれはこの前読んだ、意思決定支援の話にもつながるかな。
「この人はどうせ自分で決められないのだから」と思って接するのと
「どうかこの人の意思決定のお手伝いができるように」と思って接するのでは全然違いますよ
という話。
自分と帆花と二人だけの世界にいるような感覚に襲われる、とお母さんが映画の中で話していて
それは子育て中のママがよく感じる孤独感だと思っていたけれど
映画を観た後、ネットで検索して見つけた記事を読んで
それは帆花ちゃんの病気のことを知っても
多くの人は自分とは違う世界の話だと線を引かれてしまう
(相手はいろいろ遠慮したり気をつかっての反応なのはわかるけれど)それがつらいのだと。
私が想像していた、子どもと二人ぼっちはちょっと意味の違うものでした。
社会福祉士だったら
どんな思いでお母さんや帆花ちゃんと接するのがいいのかな、そんなことも考えました。
映画を観ながら、いつも関わっている子たちの姿が目に浮かんで
みんないろいろあるけれど、でも毎日関わっていくうちにそれぞれのいいところが分かって
みんな味があってすごくいいなぁって思う。
帆花ちゃんとも過ごす時間が増えたら、きっともっといろいろいいところが見えてくるんだろうなぁ
なんて思いました。
福祉の勉強をしている今、この映画を観ることができてよかった。